ベンヤミン『複製技術の時代における芸術作品』

今、森美術館でやっているウォーホル展について知人と話をしていた時「版画なら美術館までわざわざ足を運ばなくったって印刷物で十分じゃないか」と言われ、あ、これは、と思いました。アウラという言葉を耳にしたことがありますか。アウラとは何かということを通してオリジナルの作品を見る、ということについて考えたいと思います。

アウラとはヴァルター・ベンヤミンが『複製技術の時代における芸術作品』で提唱した概念です。書かれたのは1936年。1920年代、小型カメラの開発や印刷技術の発展によって写真がメディアとして一般市民に流通しはじめました。グラフ雑誌が発刊され、多くの人々が実物の前に立たずして像を目にする、という経験になれていきます。こうしたなかで、芸術作品を見る目と芸術作品そのものが、どう変わるかということが「複製技術の時代における芸術作品」では述べられています。
作品のオリジナルから、鑑賞者は多くのことを受け取ることができます。例えば、この絵が誰のために描かれてどのような人の手にわたったのか、どのような材料が使われているのか、手の跡から伝わる作者の胸のうち、積み重ねてきた年月や時代など。物質として、変わることなく「いま、ここ」に存在すること、複製のきかない一回限りものであることによって、作品はこれらを伝えることができます。オリジナルである作品が伝える諸々のことをベンヤミンは真生性と読んでいます。真生性を持つことによって、作品は歴史の一部となります。ベンヤミンは、アウラとは「事物の権威、事物に伝えられている重み」であると言っています。作品が、連綿とつらなる歴史を背負い「いま、ここ」にあるという事実をもって生まれる「ありがたみ」のような、ある雰囲気がアウラです。
こうしたアウラが成立する諸々の要素の価値を低下させたのが、写真を始めとする複製技術です。写真は人の手による模写や偽作とは違って、複製者の技術によって再現性を左右される可能性が少なく、多くの新しい利用価値と可能性を持っていました。人間の眼で見ることのできない角度から作品を見ることや、任意の場所に展示すること、リトグラフを所有して好きな時に繰り返し鑑賞することなどです。複製技術によって芸術作品そのものを改変することも可能になりました。これらの新しい可能性によってオリジナルが「いま、ここ」にある価値は希薄なものになってしまいました。「いま、ここ」の価値が低下したことによって、作品から伝えられる真生性は成立しなくなり、ベンヤミンの考える形では、アウラは感じられなくなってしまいます。
もともと、芸術は儀式のために生まれました。作品は神や教義をあらわす仮象の姿であったため、物質的永続と一回性を持った永遠の美が目指されました。作品はアウラという「ありがたみ」を帯び、見る者は神の仮象から受け取ったものをもって自らの内に瞑想します。ここでは作品との空間の共有が最も重要で、視覚による鑑賞は必須ではありませんでした。日本で言うと、お堂に隠された秘仏を拝む感じを思い浮かべると合点がいくかと思います。複製技術による像の氾濫によって、像を見ること=鑑賞になりました。鑑賞は眼を中心になされ、作品の表層から伝えられる意図を受け取り、解釈し、楽しむという態度で行われるようになります。そして、作品は歴史の文脈から切り離され、鑑賞者の楽しみに消費されるものになります。そして作品のあり方も変化していきます。

  • 「印刷物で十分」?

で、ここで冒頭の話にもどりますが「印刷物で十分」について。実物の前に立ってもアウラを感じられないなら、わざわざ見に行かなくていいじゃないかということになる訳です。西洋では複製技術が発達するまでは、人間の作為をもって自然を美化することで美はなされるべきであるとされ、作者の手の跡が重要視されていました。しかし、写真の登場でこうした美学は覆されてしまいました。人間の手の跡が必須でなくなったことで、芸術の制作は多様化します。ウォーホルのファクトリーによって流れ作業化された制作形態はその最たる例であるといえます。彼らは、アウラに変わって特定の意思を作品に託しています。そしてそれは、作品に対峙した者が思考することで各々読み取るものです。複製による像だけで思考が可能なのであれば、作品のオリジナルに訪ねる必要はないと言えます。ちょっと乱暴ですが、好きにしたら、としか言えないわけです。
しかし、それでは芸術作品の成立と存在意義が危うくなってしまいます。そこで美術館は展覧会を編集し、文脈立てて種々の工夫を施し参照図版のように作品を提示することで、人を集めます。芸術による島おこしや国際芸術祭なども芸術の新しい社会的意義を模索する動きですね。インスタレーションやパフォーマンスなどの、空間や鑑賞者を含めて成立する作品の形態も芸術の存在意義を求める狂おしい試みであると感じます。
日本人は、ながらく芸術を「ありがたみ」を持って見てきました。アウラ凋落の過程と美学の変遷は西洋における事態であり、戦後の近代化において西洋の美術観を細切れに輸入した日本では文脈として理解されにくいものです。しかし、確実に違和感としてあり、そうした違和感が「芸術って難しい」という言葉に集約されています。展示室で、稀に所在の無さを感じることがあります。身の置き所のわからなさというか、作品との遠さのようなものです。これがアウラの不在です。しかし、複製技術はアウラと引き換えに、鑑賞者と芸術の新しい関わり方を与えてくれました。芸術作品を自らの一部として引き受けて解釈すること、自己実現、相互に影響をあたえることなどです。私がここに展覧会の感想などを書くのも芸術による自己実現のひとつ。
作品に対峙して意図を読み取ろうとしている時、アウラのようなものを受け取っているような感覚があります。とても素敵な人とお話をしている時の嬉しさのようなもの。惜しむらくは家まで連れて帰りたいという気持ち。(図録を買いましょう)ベンヤミンのいう一回性のうえに成り立つアウラとは異なるものなのでしょうが、これだって作品のオリジナルを見に行く理由として十分ではないのかなぁと思うわけです。わざわざ足を運ぶのだって悪くないもんだよ。だから展覧会、行こうね。

ボードレール 他五篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)

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